安部井壮蔵(香木)

生誕:安政元年?
死没:明治10年5月31日(大分県大野郡三重 戦死)
享年:24歳
役職: (明治期に陸軍少尉試補→少尉)
禄: 
家族:父 又之丞良明、兄 磐根(清介、惣右衛門)・小沢正夫(仙之介)
墓所:二本松市法輪寺、大分県大分市大分県護国神社境内墓地

■空腹は恥?
勘定奉行安部井又之丞(65石)の3男として出生。兄には後に衆議院副議長を務めた安部井磐根や、詩作に秀でた小沢正夫がいます。
末子の壮蔵は、両親や兄から強い武士になるべく、厳しく教育されました。
長兄の磐根は壮蔵が幼いころの逸話として、次のような出来事を語り残しています。
壮蔵が5歳のころ、夕刻に母親に空腹を訴えたところ、母は「はしたない心だ、武士ではない。そのようなことでは戦には行けない」と彼を叱責しました。さすがに磐根も壮蔵に同情したそうですが、壮蔵は素直に自分の非を悟ったらしく、母の前に手をついて泣きながら謝り、以後死ぬまで一度も空腹を訴えることはなかったといいます。
また、磐根自身も壮蔵を「人よりも強くなれ」と教育していたらしく、弟の死後、それを悔やむような追悼の歌を詠んでいます。

■戊辰戦争
壮蔵は戊辰戦争の年には15歳になっていました。父や兄が藩のために奔走する姿を間近に見ながら、彼も他の少年たちと同じように闘志を燃やしていたであろうことは想像に難くありません。
このころの壮蔵の様子を、父又之丞は磐根に宛てた書状の中で次のように記しています。

壮蔵は先月(=6月)26日夜、四番組大砲方を仰せ付けられました。出張の日限は今のところわからず、有難いことではありますが、若輩のことにて御用にたつか心もとなく、心配です。当人は勇み立って専らその心掛けで稽古をしています。(二本松藩史より意訳 7月3日付)

又之丞は壮蔵が四番組に配属されたと記していますが、実際には壮蔵は丹羽右近隊(=八番組)として大壇口に出陣しています。そして7月29日に二本松は城下兵員の総力を挙げての抵抗の末に落城。壮蔵のいた大壇口は激戦の果てに破られ、又之丞は本城にて自刃を遂げました。
戊辰戦争における壮蔵の活躍の詳細は明らかではありません。配属命令に勇み立ったという彼は、凄惨な戦争をどう戦い、失ったものに何を思ったのでしょうか。

■軍人への道
戊辰戦争にて又之丞が自刃を遂げたため、安部井家の家督は長兄の磐根が継承します。磐根に実子がなかったため、壮蔵は後に兄の養子となりました。
明治7年、壮蔵は鈴木敬事、大内守静と共に陸軍の上等士官生徒募集に応じ、これに合格。戊辰戦争を経て、壮蔵は尚も職業軍人として戦い続ける道を選んだのでした。
後に磐根が試験監督だった人物から聞いた話によると、試験時の彼の成績はあまり芳しいものではなかったそうですが、口頭試問の折に「戦争に従事したことはあるか」と訊かれた壮蔵は臆することなく「二本松での戦争に参加した」と返答。さらにどのように戦ったかを問われて「隊長が意気地なしで退却を命じたが、友人たちと残って恐れながら鉄砲を撃って、それから退却した」と答えたそうです。その態度が評価され、壮蔵は合格できたといいます。
入学試験時の成績こそあまりよくなかった壮蔵ですが、入学後の彼の成績は、群を抜いて優秀だったといわれています。

■西南戦争
士官学校を優秀な成績で卒業した壮蔵は明治10年2月時点で少尉試補(後に少尉となっています)として熊本鎮台第14連隊第2大隊第1中隊に勤務しています。このころ、既に彼の名前は香木と改められていました。(以降香木で記します)
軍人としての道を順調に歩み始めた彼ですが、やがてその身に2度目の戦争が降りかかります。
明治10年2月、日本最後かつ最大の士族反乱、西南戦争が勃発。西郷隆盛を擁した九州士族の軍勢が熊本鎮台を攻撃しました。鎮台兵は司令長官の谷千城を中心に熊本城に籠り、政府軍の到着を待ちながら籠城戦に入ることになります。
当時小倉の支部に常駐していた第14連隊は第1大隊の左半隊しか籠城には間に合わず、以後乃木希典(当時少佐)に率いられて植木、木葉、高瀬、田原坂と各地を転戦します。なお、有名な連隊旗の喪失は緒戦となった植木での戦いで起こっています。香木のいた第2大隊の第1中隊は2月7日に一中隊を長崎に派遣するようにとの命があったため同所への派遣が決定。2月11日に長崎に到着、警備にあたっていました。その後3月下旬に高瀬出張の命が下りたため3月27日には七本村に到着、以後本隊と共に戦闘に参加することとなりました。(2015年2月14日注記:戦闘経緯の詳細と香木の活躍について近日加筆予定)
はじめは苦戦した政府軍ですが、その後徐々に優勢にたち、やがて熊本城は開通します。
しかし熊本城開通後、野村忍介率いる奇兵隊による豊後攻略作戦が開始されました。大分県からの派兵要請を受け、これに対応するために第一旅団と熊本鎮台から選抜された部隊が投入されます。熊本鎮台からは二個大隊が派遣され、この中に香木もいました。政府軍は10数日に及ぶ激戦の末、5月29日には薩軍の手中にあった竹田を奪回しました。
これ以降順調に進むかに見えた豊後方面での反撃ですが、5月31日、予想外の苦戦を強いられることになります。
5月31日時点で、香木は奥保鞏(当時少佐)率いる一個中隊半に所属していました。この隊は午前4時ごろ大寒を出発、山中の壘を抜きながら三重市に進みます。三重市の薩軍を寡勢であるとみていた奥隊ですが、実はこの時、竹田を退いた数百名の薩軍が三重市の軍勢に合流していました。このため奥隊は予想外の挟み撃ちにあうことになり、苦戦に陥ります。やがて一方に血路を開いて正午頃大寒に退き、さらに戸次へ移っていますが、この時には31名の死者を出していました。
この犠牲者のなかに、香木も含まれていました。
戊辰戦争の苛烈な体験を経ても尚戦い続けることを選んだ香木。
郷里の落城時に城と運命を共にした父と同じく、彼もまた国難に殉じたのでした。
享年24歳。墓所は大分県の護国神社境内墓地と、二本松の法輪寺の二か所にあります。
香木の死は郷里にも伝えられ、兄の磐根のもとには知人が弔問に訪れました。しかし磐根は人々の悔やみ言に対し「愚息(=香木)の死は情に於いては固より悲しむべきであるが、国の為には至って賀すべきものだ」(「国之磐根」より訳)と答え、人前では決して悲嘆に暮れる様子を見せなかったといいます。
それでも彼が心より弟の死を悼んでいたことは、今に残る数々の追悼の歌からも明らかです。
その後、豊後方面の政府軍は薩軍を退け、やがて九州各地も次々に平定されます。鹿児島における城山籠城戦の果てに薩軍の首魁であった西郷が自刃し、西南戦争は終わりを告げました。
二つの戦争に二つの立場から参戦し、最終的な勝利を直接目にすること無く逝った香木。彼は今、二本松と大分、彼にとっての二つの戦場となった地に眠っています。

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2012年11月30日追記 入学試験の逸話を追加、それに伴って文章を一部訂正しました。





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